カテゴリー: 古代

  • 日本の古代からある人質制度がわかる

    日本の古代からある人質制度がわかる

    本記事のテーマ

    日本の古代からある人質制度がわかる

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    人質制度とは(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    ●人質(ひとじち)は、交渉を有利にするために、人の身柄を拘束することや、拘束された人の事である。
    ●日本史でも人質事例はたくさんある
    1. 百済王子(飛鳥時代):百済復興のため日本が支援し、王子を人質として保護。
    2. 高句麗王子(飛鳥時代):高句麗との外交関係の中で来日。人質的立場で滞在。
    3. 多治比氏(奈良時代):地方豪族で、中央政権との関係強化に人質的役割を果たす。
    4. 足利義満(室町時代):父・義詮が南朝との和睦のために人質として差し出した。
    5. 徳川家康(戦国時代):今川義元へ人質として送られた。後の今川家との同盟の証。
    人質と聞けば、事件性がある良くない話。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    日本史でも人質事例はたくさんあるが、よく事例をみると、
    ●外交関係によるもの
    ●地方豪族と中央政権との関係強化
    ●和睦のため
    ●戦国大名どうしの同盟の証
    など、良好関係を構築する目的が強い!
    双方の良好な関係のために人質を送っている。人質は悪いことなのだろうか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    1. 百済の王子は日本(倭国)で育ち、その後百済の国王になり戻る。倭国と同じ政治体制を百済にも敷くのに双方にとって都合がよかった。(相手国の文化を破壊しない。その国の文化・伝統はそのままで、政治は倭国と同じとなる)
    2. 古代において、近隣諸国の王子は親となる国に集められ、そこで育つため、その後国境紛争になっても王同士の信頼関係で穏便に事を済ませることができた。
    3. 小作人の子供は地主のもとに預けられた。地主の屋敷や農地が大きいため、炊事・掃除・洗濯・料理・裁縫・田植え・農作業・行儀作法などを集団生活の中で教えられる。習った経験を自分の家で実践していった。
    4. ヨーロッパの国室は皆、親戚で国王同士の紛争回避しようとする習慣が広がる。近衛兵は王の下の貴族の息子たちが多く、貴族が王を裏切らないように集められていた。

    以上から、

    1. 「人質」と言えば聞こえは悪い。でも、真相はそうではなかった。
    2. 「人質」よりは現代の「期間限定の出向」に近い。
    3. 奴隷としてこき使われる人質ではなく、平和のための習慣しての人質とみることができる。

    確かに、人質先で問題を起こせば厳しい処分になるでしょうが、
    子供時代、若い時に他国に世話になった、他国に知り合いがいるとなると、いざもめたときも柔軟な対応ができますよね。

    ビジネスパートナー先への期間限定の出向に近いですね。相手がわかるからよい提案もできるみたいなものでしょうね。

    まとめ

    「日本の古代からある人質制度がわかる」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 八紘一宇(はっこういちう)を正しく理解し世界平和に貢献せよ! がわかる

    八紘一宇(はっこういちう)を正しく理解し世界平和に貢献せよ! がわかる

    本記事のテーマ

    八紘一宇(はっこういちう)を正しく理解し、
    世界平和に貢献せよ!

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    八紘一宇(はっこういちう)(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    八紘一宇(はっこういちう)
    聞いたことありますか?

    ほとんどの人が聞いたことがないはず。学校で学ばないから。

    「八紘一宇(はっこういちう)」がGHQによって戦後に禁止。この言葉は軍国主義・国家神道・侵略戦争の象徴であり、戦争遂行のスローガンとしての利用されたとされ、アメリカにとって危険思想とされた。戦後の民主化政策の一環として使用を禁止。

    日本の対外侵略や帝国主義的政策の正当化に利用。
    アジア諸国への支配を「共存共栄」として美化するスローガン
    として使われる「八紘一宇(はっこういちう)」のため、使用禁止としています。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    ・『日本書紀』に記された神武天皇の言葉であり、古代から危険な思想を示す言葉なのだろうか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    八紘一宇は誤解されていないか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    ①もともとは『日本書紀』に記された神武天皇の言葉に由来し、「天下を一つの家のようにまとめる」という意味を持つ理念。

    1. 「四方の国々を統合して都を開き、天下を覆って家とすることは、はなはだ良いことではないか」 (日本書紀、神武天皇建国の詔)
    2. 日本列島を私たちの家とすること、奪えば足りなくなるが分け合えば余る という和の精神を皆で実践し、平和で豊かな国を目指した。

    ②世界の平和を願う大調査の思想ともいえる。

    1. 「八百万の神々(やおよろずのかみがみ)」がそれぞれの権力ではなく、役割分担したように、国民1人1人が個性を発揮して役割を果たせば日本の社会として調和がとれる。
    2. 世界においても、各国が個性を発揮すれば世界の調和がとれる。しかし、「八紘一宇」の考えは厄介な思想と取る相手もいる。
    人種的差別撤廃を国際会議で初めて提案したのは日本(1919年)だった。参加国の過半数の賛成を得たが、アメリカの一方的な反対で却下されたが、差別撤廃の提案も八紘一宇の精神があるといえる。
    「八紘一宇」が一致団結、国民総動員と偏って受け入れてしまうと戦争の原因の思想へと誤解されてしまったのではないか?

    以上をまとめると、

    世界という屋根の下で各民族が民族独自の方向性を発揮し、独自の文化を磨き尊重し合えば、世界全体の調和がとれる!その考えが「八紘一宇」であり、日本から世界に発信したいが、それをよく思わない相手もいることも知っておくこと!

    まとめ

    「八紘一宇(はっこういちう)を正しく理解し、
    世界平和に貢献せよ!」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 縄文土偶とは? 土偶は妊婦の安全祈願と弱者への愛 がわかる

    縄文土偶とは? 土偶は妊婦の安全祈願と弱者への愛 がわかる

    本記事のテーマ

    縄文土偶とは?
    土偶は妊婦の安全祈願と弱者への愛

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    縄文土偶(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 縄文時代(約1万3千年前〜約2,300年前)に日本列島で作られた素焼きの土製人形。
    2. 女性をかたどったものが多く、乳房や妊娠した腹部などが強調されているのが特徴。
    3. 装飾品だけでなく、豊穣・安産・再生・呪術的な祈りの道具。
    4. 出土する土偶の多くが意図的に壊されている。
    5. 土偶の多くは、手足や顔の一部が欠けている。
    縄文人の死生観や自然観、そして祈りのかたちを映し出している。

    (https://discoverjapan-web.com/article/37946 から引用)

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    1. なぜ、土偶を作ったのか?
    2. なぜ、土偶を意図的に壊して捨てたのか?
    3. なぜ、土偶は人そっくりでないのか?
    4. なぜ、手足や顔の一部が欠けている土偶が多いのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    縄文土偶を作った本当の意味や目的をしっかり考えてみよう!

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    ①土偶は、母子ともに無事であるための身代わり

    母子の生命の危機は出産。母子共に無事を祈るために、土偶が身代わりとなった。
    ⇒現実離れした形なのは、土偶が神に召させるためとわかりやすく伝えるため。
    ⇒土偶をバラバラに割り、村の四方に意図的に捨てたのは、土偶を復活させないため。

    ②古事記に出てくる「ヒルコ」(弱者)に対しての鎮魂

    村落の狭い社会で同族結婚や近親婚が多く、弱者が多く生まれた。
    古代において、彼らを予言者やシャーマンの代わりと考え、大切にするようにと、その象徴として土偶がある。

    以上をまとめると、

    土偶は妊婦の安全祈願と弱者への愛・尊厳と言える!
    この優しい気持ちは現代でも十分でも通用できる!

    まとめ

    「縄文土偶とは?
    土偶は妊婦の安全祈願と弱者への愛」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 日本の縄文時代の常識が変わる! がわかる

    日本の縄文時代の常識が変わる! がわかる

    本記事のテーマ

    日本の縄文時代の常識が変わる!
    日本の強みが古代からある!

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    日本の縄文時代(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 大陸で発達した文明・文化・技術が日本にやって来た。
    2. 狩猟採集生活は移住が基本。
    3. 大陸の方が日本より優れており、大陸の文明が日本に来た。
    4. 日本より大陸の方が早い時期に稲作が定着した。
    先行する大陸の文明・文化・技術が渡来人によって伝来しそれを日本で融合したのが縄文文化。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    ・日本の縄文文化は大陸の影響によって構築とあるがそれは本当なのだろうか?
    ・三内丸山遺跡などの有名な遺跡があるが、それからわかることはないのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    日本の礎でもある縄文時代
    縄文時代の常識は教科書どおりで本当に正しいのか?

    真相を説明します。

    今の大人が子供のときに学んだ縄文時代の常識が近年の研究により変わりつつあります。

    ➂通説を検証して見えた真相

    ①大陸より日本の方が早いものがある

    1. 4万年前には日本人が日本列島に住み、ある程度の集落の村落を形成。
    2. 日本の最古の土器は16500年前で、世界最古のシュメール文明の土器9000年前より古い。

    ②むしろ日本から大陸へ伝来するものも多数ある

    1. 日本の旧石器時代の石器が中国の石器時代の遺跡から見つかっている。
    2. 12000年前の木の漆が日本の遺跡から見つかり、中国より古い。漆は日本から中国に伝来したともいえる。

    ③大陸にはなかった日本独自の縄文時代

    1. 肉食な狩猟民族であるが定住型で石器・素材の製造・流通ルートが確立。
      (黒曜石の発掘場所、運搬道路、陸揚げ港、港からの道が解析され、そのルートに遺跡がある)
    2. 大陸は常に争いが絶えないが、日本の縄文時代は平和だった。
    3. 縄文土器の実用性が低い装飾があるのは、争いがない平和の証。遺跡から周囲を囲む壁や堀がないのも平和な象徴と言える。
    4. 世界の古代遺跡で必ず出土されるが、日本では出土されない対人器。平和と言える。
    5. 採取生活で十分食べていけたから稲作は必要なかったため、大陸より遅い時代になって稲作が日本に定着。

    以上をまとめると、

    日本にも立派な縄文文明があり、大陸より先に土器、石器、漆などの技術があり、むしろ大陸へ伝来。縄文時代の常識が覆されている!

    まとめ

    「日本の縄文時代の常識が変わる!
    日本の強みが古代からある!」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 東大寺の大仏と大仏殿のすごさがわかる

    東大寺の大仏と大仏殿のすごさがわかる

    本記事のテーマ

    東大寺の大仏と大仏殿
    高い技術力&組織力でなければ作れない至難の業

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    東大寺の大仏(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 盧舎那仏(るしゃなぶつ)高さ15m 重さ500トン以上
      (世界最大級の青銅製仏像)
    2. 仏殿高さ48.7m,幅57m、奥行50m
      (木造軸組建築としては世界最大級)
    3. 聖武天皇が疫病・飢饉・戦乱などの社会不安を鎮めるために建立を発願。民衆の協力を呼びかけた国家的事業。
    4. 国家仏教の象徴としての政治的・宗教的意義も非常に大きく、聖武天皇の理想が形になった空間
    奈良時代における東大寺の大仏は、国家の安定と統治理念の具現化という深い意味をもつ重要な建造物。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    1. 当時の技術で、とても作れるものではない!
    2. どうやって巨大な大仏と、巨大な木造建築物を作ったの?
      ①大量の銅をどうやって採掘、運搬、鋳造したのか?
      ②大仏、木造建築物の強度、それに耐える木材の選定は?
      ③大仏の表面を金でどうやって覆ったのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    重機がない時代だし、設計計算するにも数学・物理・化学を知らない時代
    どうやって作ったのだろうか?

    真相を説明します。

    東大寺のすごさを技術面で見てみましょう。

    ➂通説を検証して見えた真相

    ①大仏の銅

    1. 銅山から採掘するが、銅を溶かすには1000℃以上の高温が必要。当時の窯ではせいぜい8,900℃。
    2. 古代の日本人は鉱山発掘の経験から9%のヒ素を含む銅は融点が900℃まで下がることを知っており、この銅を使って溶かしていた。(山口県長登(ながのぼり)銅山の大切製錬遺跡)(「ながのぼり」の語源は「奈良のぼり」)
    3. 低い融点で銅を製錬し鋳型に流し込んで金属塊を作り、船に奈良まで運び、再び溶かして鋳造仏を作る手間を惜しまない技術の高さ。

    ②大仏、建物の強度計算

    経験値と、ミニチュアを試作、試行錯誤によって建設したと思われるが、それにしても技術が高い!
    →大仏の内部は空洞になっている(銅を節約するため)。上の銅の厚み、形、角度によってかかる荷重、底辺部が座屈しないために必要な銅の量や厚さ
    →大仏殿(建屋)も当時世界最大級の建築物。強度をもつ木材の選定と運搬、立派な柱をくみ上げる構造。
    →地震が多い日本だけに耐震強度も求められる。経験値とはいえ、その技術は高すぎる。

    ③大仏の表面を金メッキする化学技術

    大仏の表面を削り研磨し、水銀と金で溶かしたアマルガムを塗り付け、水銀を蒸発させ金を表面に残す。
    (ただし、蒸発した水銀による住民の水銀中毒問題もあとで起きてしまう。。。)

    以上をまとめると、

    ・仏教で国民を守る思いだけでなく大仏を建設できる当時の技術力の高さ。
    ・世界にも巨大なモニュメントはあるが、ほとんどが石やコンクリートで、比較的容易。
    ・奈良の大仏は金属の巨大建造物であり、至難の業といえる。

    まとめ

    「東大寺の大仏と大仏殿
    高い技術力&組織力でなければ作れない至難の業」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 白村江の戦いの真実! 古代も現代も自国の安全保障は大事! がわかる

    白村江の戦いの真実! 古代も現代も自国の安全保障は大事! がわかる

    本記事のテーマ

    白村江の戦いの真実!
    古代も現代も自国の安全保障を考える必要がある

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    白村江の戦い(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 663年に朝鮮半島の白村江で起きた、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦争。
    2. 唐・新羅連合軍が百済を攻め日本に援軍を要請。
    3. 中大兄皇子(後の天智天皇)が指揮。
    4. 日本から3万近い兵士を出兵。1万人以上が戦死。日本・百済連合軍は大敗。
    5. 日本は朝鮮半島から完全撤退し、百済は滅亡。
    教科書では飛鳥時代は国内の政治がほとんどで、
    たまたま海外との戦いが起きた程度の印象しかない。

    と思います。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    1. 白村江の戦いはなぜ起きたのか?
    2. 当時の朝鮮半島、中国、日本との関係は?
    3. 日本史に少ない外国との戦いで、この戦いでの重要性があまり教えられていないのが現状。
    4. この戦いから我々は何を学べばよいか?
    5. 日本は律令国家を形成するが、白村江の戦いから影響があったのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    白村江の戦いから大事なことは学べないのか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    古代の日本をとりまく環境(安全保障)

    下図で解説します。

    1. 常に超大国中国・朝鮮からの脅威があった。
    2. 中国が内乱状態の場合は、脅威は下がる。
    3. 中国に超大国ができたときは脅威が上がり、独立維持したい日本は使いを送っていた。
    4. 中国と朝鮮が手を組んで日本側を攻める状況が最悪の状況で、白村江の戦いはこの最悪な状況になってしまった。
    蘇我氏出身の聖徳太子が、蘇我氏が狙う政治をしなかったのは、常に外交リスクが強く、ひ弱な日本を強い国家体制にしなければならないとわかっていたから。その最悪なシナリオが現実味を帯びたのが聖徳太子の時代から50年後に起きた白村江の戦いだった。

    飛鳥時代は国内の話が多いのですが、常に外交からのリスクに神経を使っておかなければいけない時代でした。なぜなら、中国は隋⇒唐と超大国が立て続けに建国されたことと、朝鮮には強国高句麗難癖をつける新羅と、日本にとって大事なパートナーである百済があったためです。

    真相

    白村江の戦いについてまとめます。

    1. 戦乱の中国から市民や敗残兵が朝鮮半島や日本に逃げ込むと社会が混乱するため、朝鮮半島にあった3つの国(高句麗、新羅、百済)を日本の緩衝地帯として安全担保していた。
    2. 隋は騎馬民族の高句麗を滅亡させようとしたが苦戦。その後618年に隋が滅亡。
    3. 隋の後、中国に強大な軍事国唐が建国(618年)。唐は隋が高句麗の苦戦を知り、高句麗を挟み撃ちするために唐が新羅と手を組んだ(遠交近攻戦略)。
    4. 百済を日本が救援し3年戦う。日本は4万人のうち1万人が戦死。(当時日本の人口500万人。現在でいうと25万人が戦死という大惨事とわかる)
    5. 669年に新羅が唐の支援で高句麗が滅亡。次は唐が新羅を攻めることは明らかで、唐が日本に攻め込んでくるのは時間の問題と大きな危機となる。
    6. 日本は絶対的防衛圏を日本海側に敷く必要が出てきた。国内も小さな豪族の集合体ではなく唐のような統一国家が必須。
    古代から日本は自国の安全保障のため、朝鮮・中国との関係を常に意識し、日本に攻め込まれないよう、常に目を見張り、国家体制を整えてきた。

    まとめ

    「白村江の戦いの真実!
    古代も現代も自国の安全保障を考える必要がある」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 聖徳太子のホントウの功績  がわかる

    聖徳太子のホントウの功績 がわかる

    本記事のテーマ

    「聖徳太子のホントウの功績!
    蘇我氏の圧力より国際情勢を見極め国家の礎を作った」

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    聖徳太子の功績(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 冠位十二階の制定(603年)
      身分や血縁ではなく、能力や徳に応じて官位を授ける制度。
    2. 十七条憲法の制定(604年)
      仏教・儒教思想を取り入れた道徳的な規範。
      → 「和を以て貴しと為す」など、協調と礼節を重視する政治理念を提示。
    3. 遣隋使の派遣(607年)
      小野妹子を隋に派遣し、対等な外交を展開。
    4. 仏教興隆の詔(594年)
      国家として仏教を保護・奨励する方針を明示。
    聖徳太子の功績は、日本の政治・宗教・文化の基盤を築いた点で非常に重要

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    聖徳太子の政治は権力者蘇我馬子の狙い異なる点が多い
    1. 聖徳太子は蘇我氏と深い血縁関係を持つ皇族(権力者蘇我馬子の甥にあたる)
    2. 蘇我馬子は唯一記録に残る臣下による天皇暗殺をするほど、狂暴な権力者。
    3. 蘇我氏は天皇家の権威を凌駕する政治的支配の拡大を狙っていた。
    4. 絶大な支配者がいる中、聖徳太子は蘇我氏の思いのままとなる政治をしなかった。
    5. 聖徳太子の最期や法隆寺の建立の謎

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    背後の権力者の意向を背く政治を実行した理由は何だろうか?
    権力者の叔父にヨイショして、自分も出世すればよいのにと思いませんか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    国外からの圧力がなければ、蘇我派の聖徳太子は蘇我氏の思惑と異なる政治をしないはず

    真相

    西暦600年当時を地図で見よう

    西暦600年当時を地図で見ましょう。

    どの時代も超大国中国と朝鮮半島からの脅威を考えておく必要があります。
    589年に隋が統一し、朝鮮各国が朝貢を開始しましたが、しかし、日本はすぐには使いを送りませんでした。

    中国からの脅威(中国・朝鮮が一致団結する脅威)が日本に迫ってきている状況が、聖徳太子の時代であったことがわかります。

    難癖つける新羅への征討

    599年に大和国で大地震「推古地震」が発生しました。百済はお見舞いを献上したが新羅は日本の直轄領任那を襲撃しました。
    ・602年に新羅へ出兵。難癖をつける新羅への対策も急務であったのです。

    以上から、

    603年以降の聖徳太子の政治実績の前には、中国・朝鮮との脅威が強くあり、その対応策を国家としてまとめることが求められていたことがわかります。
    仏教を受け入れ、能力評価制度を採り入れ、今でも十分通用する十七条憲法を作り、超大国隋と対等な関係を作るには、日本中から有能な人を集め有効に活かす必要があったのです。これを実行したのが聖徳太子ですね。
    国内豪族の言いなりで政治していると、いつ外から襲撃がらあるかがわからない。これが蘇我氏出身の聖徳太子が蘇我馬子の要求どおり政治をしなかった理由ではないかと考えることができます。
    国家体制を強化し、海外からの脅威に耐える政治を行った聖徳太子は立派と言えます。その分、蘇我馬子は自分の思いのままにならない点でイライラが募ったことでしょう。

    目先の利益ではなく、視座を高めてどうあるべきかを考えることが大事ですね。

    まとめ

    「聖徳太子のホントウの功績!
    蘇我氏の圧力より国際情勢を見極め国家の礎を作った」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 皇居にある文官像「和気清麻呂」の功績がよくわかる

    皇居にある文官像「和気清麻呂」の功績がよくわかる

    本記事のテーマ

    皇居にある文官像「和気清麻呂」
    教科書で習わない和気清麻呂の偉大な功績

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    和気清麻呂(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    すいません、「和気清麻呂?」どちら様?
    教科書にあったかなあ。。。
    試験に出たことないしなあ。。。
    皇居の像は2つあるが、そのうちの1つが和気清麻呂。
    何で、皇居の像になった人なのか?知らない。。。

    だと思います。

    「現代の日本人は俺のこと知らんのかい!!」
    って和気清麻呂が怒っているかもしれません(笑)

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    日本は何度も危険を冒してでも対岸の朝鮮半島へ乗り出したのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    現代の教科書では詳しく扱われていないが
    皇居にある2つの像のうちの1つが和気清麻呂像である。
    和気清麻呂が皇居の像になるほどの功績は何か?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    日本の天皇による「シラス統治」という背景を意識すると彼の功績がよくわかる!

    真相

    1. 和気清麻呂は垂仁天皇の子孫で奈良時代後半に活躍。
    2. 孝謙上皇の病気を治した僧侶道鏡に高い評価し、道鏡が強い政治権限を握るようになった。
    3. 最高の政治権力を持った道鏡が自ら天皇になる野望を持った。
    4. 僧侶道鏡が「自らを天皇にせよ」という神託を捏造した際、和気清麻呂は宇佐八幡宮(大分県)に派遣され、「皇位は必ず皇族が継ぐべし」という正統な神託を持ち帰った。
    5. 和気清麻呂によって天皇制の正統性を守り、国家の危機を回避した。
    6. 道鏡が激怒し、ひどい改名と流罪になったが、道鏡が政治から排除された後、赦され、平安京遷都の造営に貢献し桓武天皇を支えた。

    大事なポイント

    ここで大事なのは、

    1. 我が国は始まって以来、天皇と臣下の区別は定まっており、臣下が天皇になった例はないこと。
    2. 天皇は権威、天皇が任命したものが政治(権力)をもつ「シラス統治」が日本のベースであること。
    3. 「シラス統治」構造を崩そうとした道鏡の企みを神のお告げを活かして阻止したこと。
    4. 権力も権威も持つものが国家を支配すると、戦乱の世になってしまう。日本はこれを古代から回避してきたこと。
    5. 現代の社会では「シラス統治」による平穏だった日本の歴史の重要さが教えられていないので、知っておくことが大事。
    6. 和気清麻呂は天皇制を保持したことだけでなく、その後も他国に比べて平穏な日本国家体制につなげた点が、皇居の銅像につながっていること。
    2600年も日本は一度も国家が興亡したことはなく、他国に比べて平穏に暮らすことができた。だから、産業革命以前までは世界トップクラスの豊な国でもあった。その土台を支えた1つの功績と言えます。

    まとめ

    「皇居にある文官像「和気清麻呂」
    教科書で習わない和気清麻呂の偉大な功績」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 百済(朝鮮)と日本の親密な関係(日本は古代から外交に神経を使っていた)

    百済(朝鮮)と日本の親密な関係(日本は古代から外交に神経を使っていた)

    本記事のテーマ

    百済(朝鮮)と日本の親密な関係
    日本は古代から外交に神経を使っていた。

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    古代の日本と朝鮮の関係(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 古墳時代から飛鳥時代にかけての朝鮮半島の三国と日本の関係
    2. 百済は倭国と友好関係を築き、仏教・漢字・儒教など文化が伝わった
    3. 技術者や渡来人が日本の古墳文化や律令制度の形成に貢献。
    4. 百済は高句麗・新羅との戦いで日本に軍事支援を要請し、倭国は援軍を送った。
    5. 391年に日本が朝鮮半島に出兵し、百済と新羅を破った。
    6. 600年任那滅亡による新羅征討のため出兵。
    7. 663年白村江の戦いで倭国は唐・新羅連合軍に敗北
    飛鳥時代以前も朝鮮との深い関係があり、何度も出兵していたことがわかる

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    日本は何度も危険を冒してでも対岸の朝鮮半島へ乗り出したのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    ・海の隣国までわざわざ攻め込んだのはなぜか?
    ・対岸の火事として大人しく見ておけばよかったのではないか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    古代の日本の安全保障

    下図に、日本の脅威をまとめました。

    ①日本にとっての脅威(どの時代も)
    ・日本と朝鮮は超大国中国からの脅威にさらされてきた。
    ・日本は独立、朝鮮は冊封(属国化)を歩んできた。
    ・日本にとっての脅威は中国からの侵略または、中国と朝鮮が手を組んで日本に侵略することである。
    ・そのため朝鮮との外交、中国に使いを送り対等な関係を作り独立を守る必要があった。
    ②中国が内乱状態のときは脅威ではない
    ・中国国内が内乱状態の場合、日本に侵略するリスクは低い。
    ・中国に使いは送る必要はない(危険な航海するメリットがない)。
    ・朝鮮を支配するチャンスであるが、日本はそれをしなかった。
    (自国の安全保障が最重要)
    ③5世紀の中国・朝鮮・日本
    ・中国に宋、北魏があり、強い国高句麗が朝鮮にあった。
    ・北魏と高句麗が良い関係になり、両者が連携して、百済、日本に攻めるリスクが高まった。
    ・日本から宋へ使いを送り、北魏のリスクをさげようとした。
    ④663年 白村江の戦い
    (日本にとって最悪の事態)

    ・唐と新羅が同盟を組み、百済を滅亡させた。
    ・対馬海峡を越えて日本に攻めてくるリスクが非常に高まった
    ・百済救済のため、朝鮮出兵した。

    いかがでしょうか?
    常に、隣国からの脅威に対して、自国の安全保障が重要なことがわかります。
    これが、飛鳥時代における聖徳太子の政治に強く影響を与えたのではないか?
    律令政治、万全な日本の国家体制構築につながっていったのではないか?
    と考えることできます。

    日本は基本安全保障による行動をとってきた

    日本にいれば、周辺を支配したいという考えにならにくい。
    周囲からの脅威があり、自分で守るための行動によることがほとんど

    日本の歴史では、確かに他国への統治や出兵がありますが、どれも、侵略・略奪よりは、日本を守るための方が強い理由であることがわかります。一例をあげます。

    理由(の1つ)
    663年 白村江の戦い 唐(中国)・新羅(朝鮮)が日本に攻めてくる脅威が現実化しかけたから。
    1174年 元寇 元が日本に攻めてきたから。
    1592年 豊臣秀吉朝鮮出兵 スペインが明を支配した場合、スペインが日本に侵略するリスクが高まった。明、朝鮮より強い日本を見せる必要があったから。
    1910年 韓国併合 列強による支配を恐れ、日本が朝鮮を統治したから。
    など

    上表以外の理由もありますが、

    日本の安全保障はどの時代もしっかり考えておく必要があり、常に神経を使っていたことがわかります。それが日本の独立できた理由の1つと言えます。

    百済、新羅があった時代について細かく見てみましょう。

    真相

    主に3つの視点で見ましょう。

    1. 古代から何度も朝鮮半島へ外交・出兵を繰り返してきた。
    2. 朝鮮南部は当時の日本の生命線といえるほど重要な地域だった。
    3. 朝鮮には日本にとって厄介な新羅と高句麗があった。

    ①古代から何度も朝鮮半島へ外交・出兵を繰り返してきた。

    1. 仲哀9年(200年)に朝鮮に出兵し、新羅は戦わずして降伏し、高句麗と百済も服従した。(日本書紀)
    2. 神功皇后51年(251年)に百済が日本に最初の朝貢。以降、日本は百済の鉄資源を独占。(日本書紀)
    3. 391年に日本が朝鮮半島に出兵し、百済と新羅を破って臣下にし、399年日本と百済が強固な同盟を結んだが、400年に高句麗が新羅を助けて日本側を追撃。(好太王碑文)
    4. 大和朝廷が朝鮮半島に出兵し百済を助けるために高句麗と戦い負けた。(好太王碑文)

    ②朝鮮南部は当時の日本の生命線といえるほど重要な地域だった。

    1. 古代の朝鮮半島南部は日本に採れない鉄資源が豊富。任那、百済と親密な関係が必要だった。(日本は百済でとれる鉄・大陸の文化を欲し、百済は日本からの安全保障を求めた。)
    2. 百済の王族は日本で暮らしていた。皇太子時代は日本で暮らし、王の即位時に百済に戻った。(三国史記)
    3. 朝鮮半島南部に日本しかないとされていた前方後円墳が発掘され、大和朝廷が朝鮮南部に拠点をもっていた。

    ③朝鮮には日本にとって厄介な新羅と高句麗があった。

    1. 新羅「あるときは韓(中国)に属し、あるときは倭(日本)に属した」(梁職貢図(りょうしょくこうず)
    2. 新羅は日本の臣下の振りをして裏切り高句麗や唐と組んで日本と戦った。
    3. 高句麗は騎馬民族であり強敵であった。馬の戦力を知り、日本へ馬が伝来した。
    どの時代も、日本は大国中国と朝鮮半島との外交を注視しなければならない。
    古代からも外交重視し、日本の独立を守って来た

    まとめ

    「百済(朝鮮)と日本の親密な関係
    日本は古代から外交に神経を使っていた。」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 「徳」がつく天皇・皇太子の共通点

    「徳」がつく天皇・皇太子の共通点

    本記事のテーマ

    「徳」がつく天皇・皇太子の共通点
    (功績を称えたからではなく、怨霊化を防ぐためだった)

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    「徳」がつく天皇・皇太子(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    「徳」がつく天皇・皇太子は何人かいる

    天皇・皇太子 在位
    16 天皇 394-427
    太子 593-622
    36 天皇 645-654
    48 天皇 764-770
    55 天皇 850-858
    75 天皇 1119-1164
    81 天皇 1180-1185
    84 天皇 1210-1221

    特に聖徳太子は、たくさんの功績があります。

    ★聖徳太子の功績
    ・日本の国家体制の礎を築いた
    ・十七条憲法の制定
    ・冠位十二階の制定
    ・遣隋使の派遣
    ・仏教の普及
    ・法隆寺・四天王寺の建立
    ・三経義疏の編纂
    聖徳太子のような、大きな功績を称えて、「徳」が名についた

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    実は、「徳」がつく天皇・皇太子はもう1つ共通点があります。

    天皇・皇太子 在位 生前の名前 呼称
    16 仁徳天皇 394-427
    聖徳太子 593-622 厩戸皇子 聖徳太子は彼の死後に贈られた尊称
    36 孝徳天皇 645-654 軽皇子
    (かるのみこ)
    孝徳天皇は没後に贈られた漢風諡号(かんぷうしごう)。
    48 称徳天皇 764-770 阿倍内親王
    (あべのないしんのう)
    死後に贈られた漢風諡号。
    55 文徳天皇 850-858 道康(みちやす)親王 「文徳天皇」は死後に贈られた称号。
    75 崇徳天皇 1119-1164 顕仁(あきひと)親王 没後に贈られた漢風諡号。
    81 安徳天皇 1180-1185 言仁(ときひと)親王 没後に贈られた漢風諡号。
    84 順徳天皇 1210-1221 守成(もりなり)親王 没後に贈られた漢風諡号。

    いかがでしょうか?

    功績を称えたからではない理由があるのではないか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    真相

    真相をまとめます。

    天皇・皇太子 在位 真相
    16 仁徳天皇 394-427 民のカマド  怨霊化を恐れることという考えがまだなかった時代?
    聖徳太子 593-622 本人は蘇我氏に暗殺? のちに太子の子どもの山背大兄王は一族皆殺し。怨霊化しないために死後法隆寺を建立。
    36 孝徳天皇 645-654 中大兄皇子に家臣や妻まで連れ去られ、旧都難波宮に置き去りにされて孤独死。
    48 称徳天皇 764-770 弓削道鏡に天皇位を譲ろうとするが、和気清麻呂に妨害。さらに、自身も急死して、望みを果たせず。自身の急死には暗殺説も。
    55 文徳天皇 850-858 自分の希望を、藤原良房にひっこめさせられた文徳天皇は、発病後四日で死亡の早死に。
    75 崇徳天皇 1119-1164 白河法皇と鳥羽上皇の間でほんろうされ、院政を開く道も閉ざされ、政権奪回のために保元の乱を起こすが、敗北して讃岐国に配流。写経を書いて京都への帰還を懇願するが拒絶され、天皇家を呪いつつ憤死する。
    81 安徳天皇 1180-1185 平家の血を引く幼帝で、平家の一門とともに、源氏に追われて、壇ノ浦で敗北。二位尼に抱かれたまま、八歳にして海中に消える。
    84 順徳天皇 1210-1221 鎌倉幕府打倒のため、後鳥羽上皇とともに挙兵するが、敗れて佐渡島に配流となる。都への帰還を切望しながら、佐渡島で憤死。

    まとめると、

    怨みを抱いて死んでいった天皇が怨霊化しないように、「徳」という名を入れて祀っている。
    仁徳天皇は例外のようだ。怨霊化防止策という考えがない時代だったかもしれない。

    まとめ

    「「徳」がつく天皇・皇太子の共通点
    (功績を称えたからではなく、怨霊化を防ぐためだった)」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
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