★ 本記事のテーマ
「聖徳太子のホントウの功績!
蘇我氏の圧力より国際情勢を見極め国家の礎を作った」
蘇我氏の圧力より国際情勢を見極め国家の礎を作った」
★おさえておきたいポイント
- ①通説
- ➁通説に対する疑問点・気になる点
- ➂通説を検証して見えた真相
学校や試験対策の社会では、
真相はわからない!
自分で調べて考え抜く
本当の社会科を勉強しよう!
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①通説
聖徳太子の功績(通説)
教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!
- 冠位十二階の制定(603年)
身分や血縁ではなく、能力や徳に応じて官位を授ける制度。 - 十七条憲法の制定(604年)
仏教・儒教思想を取り入れた道徳的な規範。
→ 「和を以て貴しと為す」など、協調と礼節を重視する政治理念を提示。 - 遣隋使の派遣(607年)
小野妹子を隋に派遣し、対等な外交を展開。 - 仏教興隆の詔(594年)
国家として仏教を保護・奨励する方針を明示。
聖徳太子の功績は、日本の政治・宗教・文化の基盤を築いた点で非常に重要
➁通説に対する疑問点・気になる点
調べると気づく疑問点
参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!
聖徳太子の政治は権力者蘇我馬子の狙い異なる点が多い
- 聖徳太子は蘇我氏と深い血縁関係を持つ皇族(権力者蘇我馬子の甥にあたる)
- 蘇我馬子は唯一記録に残る臣下による天皇暗殺をするほど、狂暴な権力者。
- 蘇我氏は天皇家の権威を凌駕する政治的支配の拡大を狙っていた。
- 絶大な支配者がいる中、聖徳太子は蘇我氏の思いのままとなる政治をしなかった。
- 聖徳太子の最期や法隆寺の建立の謎
いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!
背後の権力者の意向を背く政治を実行した理由は何だろうか?
権力者の叔父にヨイショして、自分も出世すればよいのにと思いませんか?
権力者の叔父にヨイショして、自分も出世すればよいのにと思いませんか?
真相を説明します。
➂通説を検証して見えた真相
考えるポイント
国外からの圧力がなければ、蘇我派の聖徳太子は蘇我氏の思惑と異なる政治をしないはず
真相
★西暦600年当時を地図で見よう
西暦600年当時を地図で見ましょう。
どの時代も超大国中国と朝鮮半島からの脅威を考えておく必要があります。
589年に隋が統一し、朝鮮各国が朝貢を開始しましたが、しかし、日本はすぐには使いを送りませんでした。
中国からの脅威(中国・朝鮮が一致団結する脅威)が日本に迫ってきている状況が、聖徳太子の時代であったことがわかります。
★難癖つける新羅への征討
599年に大和国で大地震「推古地震」が発生しました。百済はお見舞いを献上したが新羅は日本の直轄領任那を襲撃しました。
・602年に新羅へ出兵。難癖をつける新羅への対策も急務であったのです。
以上から、
603年以降の聖徳太子の政治実績の前には、中国・朝鮮との脅威が強くあり、その対応策を国家としてまとめることが求められていたことがわかります。
仏教を受け入れ、能力評価制度を採り入れ、今でも十分通用する十七条憲法を作り、超大国隋と対等な関係を作るには、日本中から有能な人を集め有効に活かす必要があったのです。これを実行したのが聖徳太子ですね。
国内豪族の言いなりで政治していると、いつ外から襲撃がらあるかがわからない。これが蘇我氏出身の聖徳太子が蘇我馬子の要求どおり政治をしなかった理由ではないかと考えることができます。
国家体制を強化し、海外からの脅威に耐える政治を行った聖徳太子は立派と言えます。その分、蘇我馬子は自分の思いのままにならない点でイライラが募ったことでしょう。
目先の利益ではなく、視座を高めてどうあるべきかを考えることが大事ですね。
まとめ
「聖徳太子のホントウの功績!
蘇我氏の圧力より国際情勢を見極め国家の礎を作った」を解説しました。
- ①通説
- ➁通説に対する疑問点・気になる点
- ➂通説を検証して見えた真相