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  • 白村江の戦いの真実! 古代も現代も自国の安全保障は大事! がわかる

    白村江の戦いの真実! 古代も現代も自国の安全保障は大事! がわかる

    本記事のテーマ

    白村江の戦いの真実!
    古代も現代も自国の安全保障を考える必要がある

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    白村江の戦い(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 663年に朝鮮半島の白村江で起きた、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦争。
    2. 唐・新羅連合軍が百済を攻め日本に援軍を要請。
    3. 中大兄皇子(後の天智天皇)が指揮。
    4. 日本から3万近い兵士を出兵。1万人以上が戦死。日本・百済連合軍は大敗。
    5. 日本は朝鮮半島から完全撤退し、百済は滅亡。
    教科書では飛鳥時代は国内の政治がほとんどで、
    たまたま海外との戦いが起きた程度の印象しかない。

    と思います。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    1. 白村江の戦いはなぜ起きたのか?
    2. 当時の朝鮮半島、中国、日本との関係は?
    3. 日本史に少ない外国との戦いで、この戦いでの重要性があまり教えられていないのが現状。
    4. この戦いから我々は何を学べばよいか?
    5. 日本は律令国家を形成するが、白村江の戦いから影響があったのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    白村江の戦いから大事なことは学べないのか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    古代の日本をとりまく環境(安全保障)

    下図で解説します。

    1. 常に超大国中国・朝鮮からの脅威があった。
    2. 中国が内乱状態の場合は、脅威は下がる。
    3. 中国に超大国ができたときは脅威が上がり、独立維持したい日本は使いを送っていた。
    4. 中国と朝鮮が手を組んで日本側を攻める状況が最悪の状況で、白村江の戦いはこの最悪な状況になってしまった。
    蘇我氏出身の聖徳太子が、蘇我氏が狙う政治をしなかったのは、常に外交リスクが強く、ひ弱な日本を強い国家体制にしなければならないとわかっていたから。その最悪なシナリオが現実味を帯びたのが聖徳太子の時代から50年後に起きた白村江の戦いだった。

    飛鳥時代は国内の話が多いのですが、常に外交からのリスクに神経を使っておかなければいけない時代でした。なぜなら、中国は隋⇒唐と超大国が立て続けに建国されたことと、朝鮮には強国高句麗難癖をつける新羅と、日本にとって大事なパートナーである百済があったためです。

    真相

    白村江の戦いについてまとめます。

    1. 戦乱の中国から市民や敗残兵が朝鮮半島や日本に逃げ込むと社会が混乱するため、朝鮮半島にあった3つの国(高句麗、新羅、百済)を日本の緩衝地帯として安全担保していた。
    2. 隋は騎馬民族の高句麗を滅亡させようとしたが苦戦。その後618年に隋が滅亡。
    3. 隋の後、中国に強大な軍事国唐が建国(618年)。唐は隋が高句麗の苦戦を知り、高句麗を挟み撃ちするために唐が新羅と手を組んだ(遠交近攻戦略)。
    4. 百済を日本が救援し3年戦う。日本は4万人のうち1万人が戦死。(当時日本の人口500万人。現在でいうと25万人が戦死という大惨事とわかる)
    5. 669年に新羅が唐の支援で高句麗が滅亡。次は唐が新羅を攻めることは明らかで、唐が日本に攻め込んでくるのは時間の問題と大きな危機となる。
    6. 日本は絶対的防衛圏を日本海側に敷く必要が出てきた。国内も小さな豪族の集合体ではなく唐のような統一国家が必須。
    古代から日本は自国の安全保障のため、朝鮮・中国との関係を常に意識し、日本に攻め込まれないよう、常に目を見張り、国家体制を整えてきた。

    まとめ

    「白村江の戦いの真実!
    古代も現代も自国の安全保障を考える必要がある」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 聖徳太子のホントウの功績  がわかる

    聖徳太子のホントウの功績 がわかる

    本記事のテーマ

    「聖徳太子のホントウの功績!
    蘇我氏の圧力より国際情勢を見極め国家の礎を作った」

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    聖徳太子の功績(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 冠位十二階の制定(603年)
      身分や血縁ではなく、能力や徳に応じて官位を授ける制度。
    2. 十七条憲法の制定(604年)
      仏教・儒教思想を取り入れた道徳的な規範。
      → 「和を以て貴しと為す」など、協調と礼節を重視する政治理念を提示。
    3. 遣隋使の派遣(607年)
      小野妹子を隋に派遣し、対等な外交を展開。
    4. 仏教興隆の詔(594年)
      国家として仏教を保護・奨励する方針を明示。
    聖徳太子の功績は、日本の政治・宗教・文化の基盤を築いた点で非常に重要

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    聖徳太子の政治は権力者蘇我馬子の狙い異なる点が多い
    1. 聖徳太子は蘇我氏と深い血縁関係を持つ皇族(権力者蘇我馬子の甥にあたる)
    2. 蘇我馬子は唯一記録に残る臣下による天皇暗殺をするほど、狂暴な権力者。
    3. 蘇我氏は天皇家の権威を凌駕する政治的支配の拡大を狙っていた。
    4. 絶大な支配者がいる中、聖徳太子は蘇我氏の思いのままとなる政治をしなかった。
    5. 聖徳太子の最期や法隆寺の建立の謎

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    背後の権力者の意向を背く政治を実行した理由は何だろうか?
    権力者の叔父にヨイショして、自分も出世すればよいのにと思いませんか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    国外からの圧力がなければ、蘇我派の聖徳太子は蘇我氏の思惑と異なる政治をしないはず

    真相

    西暦600年当時を地図で見よう

    西暦600年当時を地図で見ましょう。

    どの時代も超大国中国と朝鮮半島からの脅威を考えておく必要があります。
    589年に隋が統一し、朝鮮各国が朝貢を開始しましたが、しかし、日本はすぐには使いを送りませんでした。

    中国からの脅威(中国・朝鮮が一致団結する脅威)が日本に迫ってきている状況が、聖徳太子の時代であったことがわかります。

    難癖つける新羅への征討

    599年に大和国で大地震「推古地震」が発生しました。百済はお見舞いを献上したが新羅は日本の直轄領任那を襲撃しました。
    ・602年に新羅へ出兵。難癖をつける新羅への対策も急務であったのです。

    以上から、

    603年以降の聖徳太子の政治実績の前には、中国・朝鮮との脅威が強くあり、その対応策を国家としてまとめることが求められていたことがわかります。
    仏教を受け入れ、能力評価制度を採り入れ、今でも十分通用する十七条憲法を作り、超大国隋と対等な関係を作るには、日本中から有能な人を集め有効に活かす必要があったのです。これを実行したのが聖徳太子ですね。
    国内豪族の言いなりで政治していると、いつ外から襲撃がらあるかがわからない。これが蘇我氏出身の聖徳太子が蘇我馬子の要求どおり政治をしなかった理由ではないかと考えることができます。
    国家体制を強化し、海外からの脅威に耐える政治を行った聖徳太子は立派と言えます。その分、蘇我馬子は自分の思いのままにならない点でイライラが募ったことでしょう。

    目先の利益ではなく、視座を高めてどうあるべきかを考えることが大事ですね。

    まとめ

    「聖徳太子のホントウの功績!
    蘇我氏の圧力より国際情勢を見極め国家の礎を作った」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 皇居にある文官像「和気清麻呂」の功績がよくわかる

    皇居にある文官像「和気清麻呂」の功績がよくわかる

    本記事のテーマ

    皇居にある文官像「和気清麻呂」
    教科書で習わない和気清麻呂の偉大な功績

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    和気清麻呂(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    すいません、「和気清麻呂?」どちら様?
    教科書にあったかなあ。。。
    試験に出たことないしなあ。。。
    皇居の像は2つあるが、そのうちの1つが和気清麻呂。
    何で、皇居の像になった人なのか?知らない。。。

    だと思います。

    「現代の日本人は俺のこと知らんのかい!!」
    って和気清麻呂が怒っているかもしれません(笑)

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    日本は何度も危険を冒してでも対岸の朝鮮半島へ乗り出したのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    現代の教科書では詳しく扱われていないが
    皇居にある2つの像のうちの1つが和気清麻呂像である。
    和気清麻呂が皇居の像になるほどの功績は何か?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    日本の天皇による「シラス統治」という背景を意識すると彼の功績がよくわかる!

    真相

    1. 和気清麻呂は垂仁天皇の子孫で奈良時代後半に活躍。
    2. 孝謙上皇の病気を治した僧侶道鏡に高い評価し、道鏡が強い政治権限を握るようになった。
    3. 最高の政治権力を持った道鏡が自ら天皇になる野望を持った。
    4. 僧侶道鏡が「自らを天皇にせよ」という神託を捏造した際、和気清麻呂は宇佐八幡宮(大分県)に派遣され、「皇位は必ず皇族が継ぐべし」という正統な神託を持ち帰った。
    5. 和気清麻呂によって天皇制の正統性を守り、国家の危機を回避した。
    6. 道鏡が激怒し、ひどい改名と流罪になったが、道鏡が政治から排除された後、赦され、平安京遷都の造営に貢献し桓武天皇を支えた。

    大事なポイント

    ここで大事なのは、

    1. 我が国は始まって以来、天皇と臣下の区別は定まっており、臣下が天皇になった例はないこと。
    2. 天皇は権威、天皇が任命したものが政治(権力)をもつ「シラス統治」が日本のベースであること。
    3. 「シラス統治」構造を崩そうとした道鏡の企みを神のお告げを活かして阻止したこと。
    4. 権力も権威も持つものが国家を支配すると、戦乱の世になってしまう。日本はこれを古代から回避してきたこと。
    5. 現代の社会では「シラス統治」による平穏だった日本の歴史の重要さが教えられていないので、知っておくことが大事。
    6. 和気清麻呂は天皇制を保持したことだけでなく、その後も他国に比べて平穏な日本国家体制につなげた点が、皇居の銅像につながっていること。
    2600年も日本は一度も国家が興亡したことはなく、他国に比べて平穏に暮らすことができた。だから、産業革命以前までは世界トップクラスの豊な国でもあった。その土台を支えた1つの功績と言えます。

    まとめ

    「皇居にある文官像「和気清麻呂」
    教科書で習わない和気清麻呂の偉大な功績」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 百済(朝鮮)と日本の親密な関係(日本は古代から外交に神経を使っていた)

    百済(朝鮮)と日本の親密な関係(日本は古代から外交に神経を使っていた)

    本記事のテーマ

    百済(朝鮮)と日本の親密な関係
    日本は古代から外交に神経を使っていた。

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    古代の日本と朝鮮の関係(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    1. 古墳時代から飛鳥時代にかけての朝鮮半島の三国と日本の関係
    2. 百済は倭国と友好関係を築き、仏教・漢字・儒教など文化が伝わった
    3. 技術者や渡来人が日本の古墳文化や律令制度の形成に貢献。
    4. 百済は高句麗・新羅との戦いで日本に軍事支援を要請し、倭国は援軍を送った。
    5. 391年に日本が朝鮮半島に出兵し、百済と新羅を破った。
    6. 600年任那滅亡による新羅征討のため出兵。
    7. 663年白村江の戦いで倭国は唐・新羅連合軍に敗北
    飛鳥時代以前も朝鮮との深い関係があり、何度も出兵していたことがわかる

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    日本は何度も危険を冒してでも対岸の朝鮮半島へ乗り出したのか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    ・海の隣国までわざわざ攻め込んだのはなぜか?
    ・対岸の火事として大人しく見ておけばよかったのではないか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    考えるポイント

    古代の日本の安全保障

    下図に、日本の脅威をまとめました。

    ①日本にとっての脅威(どの時代も)
    ・日本と朝鮮は超大国中国からの脅威にさらされてきた。
    ・日本は独立、朝鮮は冊封(属国化)を歩んできた。
    ・日本にとっての脅威は中国からの侵略または、中国と朝鮮が手を組んで日本に侵略することである。
    ・そのため朝鮮との外交、中国に使いを送り対等な関係を作り独立を守る必要があった。
    ②中国が内乱状態のときは脅威ではない
    ・中国国内が内乱状態の場合、日本に侵略するリスクは低い。
    ・中国に使いは送る必要はない(危険な航海するメリットがない)。
    ・朝鮮を支配するチャンスであるが、日本はそれをしなかった。
    (自国の安全保障が最重要)
    ③5世紀の中国・朝鮮・日本
    ・中国に宋、北魏があり、強い国高句麗が朝鮮にあった。
    ・北魏と高句麗が良い関係になり、両者が連携して、百済、日本に攻めるリスクが高まった。
    ・日本から宋へ使いを送り、北魏のリスクをさげようとした。
    ④663年 白村江の戦い
    (日本にとって最悪の事態)

    ・唐と新羅が同盟を組み、百済を滅亡させた。
    ・対馬海峡を越えて日本に攻めてくるリスクが非常に高まった
    ・百済救済のため、朝鮮出兵した。

    いかがでしょうか?
    常に、隣国からの脅威に対して、自国の安全保障が重要なことがわかります。
    これが、飛鳥時代における聖徳太子の政治に強く影響を与えたのではないか?
    律令政治、万全な日本の国家体制構築につながっていったのではないか?
    と考えることできます。

    日本は基本安全保障による行動をとってきた

    日本にいれば、周辺を支配したいという考えにならにくい。
    周囲からの脅威があり、自分で守るための行動によることがほとんど

    日本の歴史では、確かに他国への統治や出兵がありますが、どれも、侵略・略奪よりは、日本を守るための方が強い理由であることがわかります。一例をあげます。

    理由(の1つ)
    663年 白村江の戦い 唐(中国)・新羅(朝鮮)が日本に攻めてくる脅威が現実化しかけたから。
    1174年 元寇 元が日本に攻めてきたから。
    1592年 豊臣秀吉朝鮮出兵 スペインが明を支配した場合、スペインが日本に侵略するリスクが高まった。明、朝鮮より強い日本を見せる必要があったから。
    1910年 韓国併合 列強による支配を恐れ、日本が朝鮮を統治したから。
    など

    上表以外の理由もありますが、

    日本の安全保障はどの時代もしっかり考えておく必要があり、常に神経を使っていたことがわかります。それが日本の独立できた理由の1つと言えます。

    百済、新羅があった時代について細かく見てみましょう。

    真相

    主に3つの視点で見ましょう。

    1. 古代から何度も朝鮮半島へ外交・出兵を繰り返してきた。
    2. 朝鮮南部は当時の日本の生命線といえるほど重要な地域だった。
    3. 朝鮮には日本にとって厄介な新羅と高句麗があった。

    ①古代から何度も朝鮮半島へ外交・出兵を繰り返してきた。

    1. 仲哀9年(200年)に朝鮮に出兵し、新羅は戦わずして降伏し、高句麗と百済も服従した。(日本書紀)
    2. 神功皇后51年(251年)に百済が日本に最初の朝貢。以降、日本は百済の鉄資源を独占。(日本書紀)
    3. 391年に日本が朝鮮半島に出兵し、百済と新羅を破って臣下にし、399年日本と百済が強固な同盟を結んだが、400年に高句麗が新羅を助けて日本側を追撃。(好太王碑文)
    4. 大和朝廷が朝鮮半島に出兵し百済を助けるために高句麗と戦い負けた。(好太王碑文)

    ②朝鮮南部は当時の日本の生命線といえるほど重要な地域だった。

    1. 古代の朝鮮半島南部は日本に採れない鉄資源が豊富。任那、百済と親密な関係が必要だった。(日本は百済でとれる鉄・大陸の文化を欲し、百済は日本からの安全保障を求めた。)
    2. 百済の王族は日本で暮らしていた。皇太子時代は日本で暮らし、王の即位時に百済に戻った。(三国史記)
    3. 朝鮮半島南部に日本しかないとされていた前方後円墳が発掘され、大和朝廷が朝鮮南部に拠点をもっていた。

    ③朝鮮には日本にとって厄介な新羅と高句麗があった。

    1. 新羅「あるときは韓(中国)に属し、あるときは倭(日本)に属した」(梁職貢図(りょうしょくこうず)
    2. 新羅は日本の臣下の振りをして裏切り高句麗や唐と組んで日本と戦った。
    3. 高句麗は騎馬民族であり強敵であった。馬の戦力を知り、日本へ馬が伝来した。
    どの時代も、日本は大国中国と朝鮮半島との外交を注視しなければならない。
    古代からも外交重視し、日本の独立を守って来た

    まとめ

    「百済(朝鮮)と日本の親密な関係
    日本は古代から外交に神経を使っていた。」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 平安後期に武士が誕生し、源氏と平氏が武士の棟梁となった理由がわかる

    平安後期に武士が誕生し、源氏と平氏が武士の棟梁となった理由がわかる

    本記事のテーマ

    平安後期に武士が誕生し、源氏と平氏が武士の棟梁となった理由がわかる(武力の強さだけではなかった)

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    武士の誕生(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    • 平安時代後期、武装した武士が登場。鎌倉幕府へつながっていく。
    • この時代の日本は、律令が紛争解決の手段としては機能していなかったと言え、弱肉強食な世界になりつつあり、自衛のため誕生したのが武士。
    • 武士が武士団を結束し、その頂点に上がったのが源氏と平氏。
    平安時代後期から武士の登場により、鎌倉幕府の武家社会への始まりとなった。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    なぜ平穏な平安時代から、武装した武士が登場するのか?
    ・なぜ源氏と平氏はその武士の頂点になれたの? 強かったから?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    確かに平安後期は律令政治が腐敗していたが、天皇と朝廷がいる日本である。
    武士の武力による日本支配となっていったのだろうか?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    真相

    ①武士の誕生

    • 税金から免れるために、自ら開発した新田を所有した際、田んぼに水を確保するための「利水権」が必須となり、紛争の鍵となった。
    • 国から土地の所有を認める代わりに、水の取り合いの紛争は自分で解決しなければならず、武装化したのが武士の始まり。
    新田の開墾百姓が結成した自警団が武士である。

    ②源氏と平氏が武士の棟梁となった理由

    • 武士が結集した武士団が地域を超えると、紛争解決がより困難になった。
    • 大きな紛争解決には、御皇族をその棟梁に仰ぐようになった。その棟梁が源氏と平氏。
    武力の実力の高さも大事であるが、天皇直系の武士であることが最も重要。だから武士は言うことを聞く!
    (皇族の血統がなければ、征夷大将軍にもなれない)
    日本で天下をとるには、武力で勝ち上がることより、皇族から臣籍降下(皇族から一般貴族へ)した家系であることが重要。
    実力主義な日本ではなく、過去からシラス統治な日本であることをよく理解しよう!

    まとめ

    「平安後期に武士が誕生し、源氏と平氏が武士の棟梁となった理由がわかる」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 「平家物語」(「源氏vs平氏」ではなく「源氏vs平家」な理由)がわかる

    「平家物語」(「源氏vs平氏」ではなく「源氏vs平家」な理由)がわかる

    本記事のテーマ

    「平家物語」(「源氏vs平氏」ではなく「源氏vs平家」な理由)がわかる

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    平家物語(源氏と平家の争い) (通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    ★源氏と平家の争い
    ・1180年から1185年にかけて源平合戦が起きた。
    ・平清盛による平氏政権が貴族社会を圧迫し、後白河法皇の子・以仁王が源氏に打倒平氏の令旨を出したことが発端。
    ・源平合戦によって、栄華を極めた平家の一族は壇之浦で滅び、源頼朝を中心とする坂東(関東)の武士による鎌倉幕府が樹立された。
    ・源氏が勝利し、源頼朝が鎌倉幕府を開く平家物語などの軍記物語ができ、後世に語り継がれる。
    ・「平氏にあらずんば人にあらず」という傲慢な姿勢が、反感を生み出した象徴。- 平清盛による権力の独占は、貴族や武士の不満を招き、衰退の原因に。
    平家の栄華と滅亡から源氏の鎌倉幕府へ時代が進む

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    1. 「源氏vs平氏」ではなく「源氏vs平家」なのか?
    2. なぜ滅亡した平家の話を後世に伝えたいのか?
      (本来滅亡したら、事実は抹消されることが多々ある)

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    真相

    「源氏vs平氏」ではなく「源氏vs平家」なのか?

    実は、源氏側で戦った平氏、平家側で戦った源氏がいた。
    平家とは太政大臣で貴族まで上り詰めた平清盛一族のことで平氏全体ではない。
    源氏に従った平氏 平家に従った源氏
    北条時政(平氏(伊豆)) 頼政
    土肥実平(平氏(相模)) 季貞
    熊谷直実(平氏(武蔵)) 新田義重(義家の孫)
    血統どうしの争いと思われがちであるが、源氏に従う平氏やその逆もいた。
    それはなぜだろうか?。

    源氏と平家の争いの真相

    • 源氏と平氏の血統の争いではなかった。源氏と平清盛一族の平家との争い。
    • 平家が滅亡したが、平氏は滅亡していない。平家物語を平氏が読むものとなった。
    • 源氏も平氏も天皇直系の武士団の棟梁として、新田の田畑の相談対応をしてきた。
    • しかし、平清盛が太政大臣になり、平家(平清盛一族)が貴族化したため、新田の対応をしなくなり、平家を棟梁として新田の農民は源氏側につく。
    • 一方、後発で自ら新田開発したものは平家側につく。平家についた源氏である新田義重(苗字が「新田」)というくらい。
    • 源平合戦のトップは確かに、源氏と平家であるが、中身は源氏側は主だった平氏と、平家側新たに味方についた方との戦いとなった。
    こう考えるとなるほどと分かりますね!

    まとめ

    「「平家物語」(「源氏vs平氏」ではなく「源氏vs平家」な理由)がわかる」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 偶然にしてはよく似た日本語とヘブライ語 がわかる

    偶然にしてはよく似た日本語とヘブライ語 がわかる

    本記事のテーマ

    偶然にしてはよく似た日本語とヘブライ語!

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    ヘブライ語と日本語の関係(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    ヘブライ語 日本語
    地域 イスラエルだけ
    (イスラエルの公用語であり、ユダヤ人の伝統的な言語として
    数千年の歴史を持つ、ユニークな言語)
    日本だけ
    (日本語のユニークといえる)
    構造 右から左に書く。22文字の子音文字 ひらがな・カタカナ・漢字の3種を併用
    全く異なる言語で、発音が同じなのは偶然。他の言語でもよくある話。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    偶然にしては意味も発音も同じものが多い

    いくつか例を挙げると

    日本語と似た その意味
    ヘブライ語の単語
    アナタ 貴方
    アリガトウ 私(にとって)幸運です
    オニ 私を苦しめるもの
    オハリ 終焉
    スケベー 肉欲的に寝る
    ダマレ 沈黙を守れ
    ハッケヨイ 投げうて
    ワル 凶暴な者
    ヨイコラマカセ 栄光の・民は・清掃した・敵を

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    真相

    真相をまとめます。

    ヘブライ語と日本語の関係性が高いことは学問的には言えず、共通事例を挙げれば上げるほど陰謀説に入る可能性もあります。共通点が多いなあ!と感じるところまでとなります。

    童話「かごめかごめ」

    日本語の歌の発音でヘブライ語の意味をとってみましょう。

    日本語の歌 発音のヘブライ語の意味
    かごめかごめ (誰が守る)
    かごの中の鳥は (硬く安置された物を取り出せ)
    いついつでやる (契約の箱に納められた)
    夜明けの晩に (神譜を取り、代わるお守りを作った)
    鶴と亀がすべった (未開の地に水を沢山引いて)
    後ろの正面だ~れ (水を貯め、その地を統治せよ!)

    ちなみに、籠目(かごめ)とイスラエルの国旗を並べるとよく似ています。ここまでくると、日本とユダヤに関係性があるのではないかと思いますよね! きっとあると思いますが、学問上はまだそこまで言えません。

    偶然よく似た発音は他言語どうしあるが、発音が同じ単語や同じ歌で日本語とヘブライ語両方解釈できるのは、本当に偶然なのだろうか?

    国歌「君が代」

    日本語の歌の発音でヘブライ語の意味をとることができます。不思議ですけど。。。

    君が代は(★立ち上がれ、神を讃えよ)
    千代に(★シオンの民)八千代に(★神の選民であるシオンの民よ)

    さざれ石の(★人類を救う残された民として喜べ)
    巌となりて (★神の預言は成就した)
    苔のむすまで(★すべての場所でこれを言葉にして伝えよ)

    これが真実なら、日本国歌はヘブライへ歌うものになる面もあることになります。

    まだまだある、日本語とヘブライ語の共通点

    ①ユダヤ人は祭儀(祭り)が好きで、日本のお祭りの形式に多大な影響を与えている。
    ・お噺子(はやし)の言葉
    ・相撲の掛け声
    ・祇園祭りの掛け声は神を称えるヘブライ語
    ・祇園(ぎおん)はシオンと聞こえる。祇園祭とシオン祭はどちらも7月に1か月かけて行われる。
    ②日本神話に登場する神・人物はユダヤ系の可能性がある
    ・古事記に出てくる鼻から生まれたスサノオ(鼻の特徴→ユダヤ系)
    ・古事記に出てくるアメノウズメの舞いは遊牧民族的
    偶然にしては、日本語とヘブライ語の共通点が多い。古代からユダヤの影響が日本に与えるかもしれない。もし、それが真実なら歴史も変わるので面白い。

    まとめ

    「偶然にしてはよく似た日本語とヘブライ語!」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • 「徳」がつく天皇・皇太子の共通点

    「徳」がつく天皇・皇太子の共通点

    本記事のテーマ

    「徳」がつく天皇・皇太子の共通点
    (功績を称えたからではなく、怨霊化を防ぐためだった)

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    「徳」がつく天皇・皇太子(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    「徳」がつく天皇・皇太子は何人かいる

    天皇・皇太子 在位
    16 天皇 394-427
    太子 593-622
    36 天皇 645-654
    48 天皇 764-770
    55 天皇 850-858
    75 天皇 1119-1164
    81 天皇 1180-1185
    84 天皇 1210-1221

    特に聖徳太子は、たくさんの功績があります。

    ★聖徳太子の功績
    ・日本の国家体制の礎を築いた
    ・十七条憲法の制定
    ・冠位十二階の制定
    ・遣隋使の派遣
    ・仏教の普及
    ・法隆寺・四天王寺の建立
    ・三経義疏の編纂
    聖徳太子のような、大きな功績を称えて、「徳」が名についた

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    実は、「徳」がつく天皇・皇太子はもう1つ共通点があります。

    天皇・皇太子 在位 生前の名前 呼称
    16 仁徳天皇 394-427
    聖徳太子 593-622 厩戸皇子 聖徳太子は彼の死後に贈られた尊称
    36 孝徳天皇 645-654 軽皇子
    (かるのみこ)
    孝徳天皇は没後に贈られた漢風諡号(かんぷうしごう)。
    48 称徳天皇 764-770 阿倍内親王
    (あべのないしんのう)
    死後に贈られた漢風諡号。
    55 文徳天皇 850-858 道康(みちやす)親王 「文徳天皇」は死後に贈られた称号。
    75 崇徳天皇 1119-1164 顕仁(あきひと)親王 没後に贈られた漢風諡号。
    81 安徳天皇 1180-1185 言仁(ときひと)親王 没後に贈られた漢風諡号。
    84 順徳天皇 1210-1221 守成(もりなり)親王 没後に贈られた漢風諡号。

    いかがでしょうか?

    功績を称えたからではない理由があるのではないか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    真相

    真相をまとめます。

    天皇・皇太子 在位 真相
    16 仁徳天皇 394-427 民のカマド  怨霊化を恐れることという考えがまだなかった時代?
    聖徳太子 593-622 本人は蘇我氏に暗殺? のちに太子の子どもの山背大兄王は一族皆殺し。怨霊化しないために死後法隆寺を建立。
    36 孝徳天皇 645-654 中大兄皇子に家臣や妻まで連れ去られ、旧都難波宮に置き去りにされて孤独死。
    48 称徳天皇 764-770 弓削道鏡に天皇位を譲ろうとするが、和気清麻呂に妨害。さらに、自身も急死して、望みを果たせず。自身の急死には暗殺説も。
    55 文徳天皇 850-858 自分の希望を、藤原良房にひっこめさせられた文徳天皇は、発病後四日で死亡の早死に。
    75 崇徳天皇 1119-1164 白河法皇と鳥羽上皇の間でほんろうされ、院政を開く道も閉ざされ、政権奪回のために保元の乱を起こすが、敗北して讃岐国に配流。写経を書いて京都への帰還を懇願するが拒絶され、天皇家を呪いつつ憤死する。
    81 安徳天皇 1180-1185 平家の血を引く幼帝で、平家の一門とともに、源氏に追われて、壇ノ浦で敗北。二位尼に抱かれたまま、八歳にして海中に消える。
    84 順徳天皇 1210-1221 鎌倉幕府打倒のため、後鳥羽上皇とともに挙兵するが、敗れて佐渡島に配流となる。都への帰還を切望しながら、佐渡島で憤死。

    まとめると、

    怨みを抱いて死んでいった天皇が怨霊化しないように、「徳」という名を入れて祀っている。
    仁徳天皇は例外のようだ。怨霊化防止策という考えがない時代だったかもしれない。

    まとめ

    「「徳」がつく天皇・皇太子の共通点
    (功績を称えたからではなく、怨霊化を防ぐためだった)」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • アフリカの問題を正しく理解し、 あるべき協力支援方法を考えよう!がわかる

    アフリカの問題を正しく理解し、 あるべき協力支援方法を考えよう!がわかる

    本記事のテーマ

    アフリカの問題を正しく理解し、
    あるべき協力支援方法を考えよう。

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    アフリカの問題とは(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    アフリカの問題とは

    1. 物がなくて困っている。
    2. 資源が豊富なのに貧困国が多い(怠惰だから?)
    3. アフリカは発展しない。
    4. インフラやものを支援すれば彼らは喜ぶ
    貧しくて苦しいアフリカの人たちを助けたい!

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    考えるポイント

    我々の考えや気持ちはよくわかるが、その考えは正しいのか?
    アフリカの現状を知らずに一方的な思いではないか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    真相

    1. 善意の寄付がアフリカの経済的自立を奪っている。
      先進国の古着によって地元産業が崩壊(服が欲しいではなく自立産業化!)。
    2. 植民地支配から脱したが、経済的支配されている。
      援助に依存するアフリカと、依存させておくのが都合がよい先進国の思惑。
    3. 天然資源が豊富な地域、国こそ貧困から脱却できていない。
      一部の権力者だけ潤う。他の産業育成は面倒だから発展しない。
    4. 実はアフリカは発展している。
      世界平均を上回る成長率。ただし、一部の地域・国だけで新たな格差問題へ。
    5. アフリカ人の中でも新たな貧富の差が発生。
      全員が貧しいのではなく、大富豪が出現するが、まだまだ大多数は貧困層。
    一方的な寄付は地元産業崩壊のリスク。
    アフリカ人が自立できる仕組みを彼らが一番求めている。
    アフリカ人の中で貧富の差という新たな問題もある。
    資源があると癒着する体制は過去も今も変わらない

    よくYoutubeで見かける動画で、

    巨大なインフラ設備をアフリカに支援する海外と
    地元の人と協力して小規模な施設建設を支援する日本
    があり、最初海外側が日本を嘲笑するが
    長期的に日本の支援の方が良かったという動画がたくさんあります。

    すべてが事実かどうかはわかりませんが、

    短期的で一方的な協力支援ではなく
    長期的かつ自立できる支援を積み上げることが大事といえます。
    相手への気持ちは大事ですが、
    同時にニーズをしっかりおさえる客観視も重要ですね。

    まとめ

    「アフリカの問題を正しく理解し、あるべき協力支援方法を考えよう。」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
  • ソ連崩壊後の新生ロシアが経済混乱した理由

    ソ連崩壊後の新生ロシアが経済混乱した理由

    本記事のテーマ

    ソ連崩壊の新生ロシアに世界は歓迎
    でも新生ロシアが経済混乱で苦しんだ理由

    おさえておきたいポイント

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
    学校や試験対策の社会では、
    真相はわからない!
    自分で調べて考え抜く
    本当の社会科を勉強しよう!

    ①通説

    ソ連崩壊後の新生ロシアとは(通説)

    教科書、学校、塾、親から教えてくれる内容は以下ですよね!

    新生ロシアとは

    1. 新生ロシアは冷戦の終結として世界から歓迎。
    2. 東西諸国は軍事的脅威の低下により国防費の削減や経済協力の拡大が期待。
    3. バルト三国やウクライナなどは独立を果たし、民族自決の達成として歓迎。
    4. 共産主義から市場経済への移行に世界は支援した。
    ソ連の恐怖がなくなり平和な世界の中、グローバル化が加速。

    ➁通説に対する疑問点・気になる点

    調べると気づく疑問点

    参考文献やYoutube動画を調べていくと、通説と異なることがわかります。それを陰謀論として片づけてしまってもよいですが、物事は多面的に見て、客観視する必要があります。QCプラネッツは品質管理を専門としています。品質管理は客観視が必須です。同じ姿勢で取り組みます!

    考えるポイント

    確かに、現在、強いロシアへと成長したが新生ロシアによる混乱や、ロシアになったことによる問題点がなかったのだろうか?

    いかがでしょうか?疑問が湧きますよね!

    混乱期のエリツィン、強いロシアを作っているプーチンの違いとその背景は?

    真相を説明します。

    ➂通説を検証して見えた真相

    真相

    1. 品不足だった計画経済から急に市場経済原理を導入したため物価が急上昇した。
    2. ロシア政府は国家財政立て直しのためにIMF(国際通貨基金)の支援に頼らざるを得なかった。IMFは民営化を強行。民営化に国内経済が混乱。
    3. 国家企業を民営化(株式発行)したが国民に価値が伝わらず、その価値に気づいた一部の起業家(民間企業・銀行)が二束三文で企業を買収し、急成長した。
    4. 財政が苦しいロシア政府はロシア民間銀行から融資を受けるが、その代償としてロシアの石油・天然ガス・鉱物資源が民間銀行家の所有になった。
    5. 財政が苦しいロシア政府である一方、巨額の富をもつ新興財閥(オルガルヒ)が登場した。
    6. オルガルヒは、ロシアの天然資源の輸出や、政権と癒着。その一方で、一般市民の生活はより厳しく格差社会を生み、新興財閥への不満が高まった。
    新生ロシアの混乱の中、一部の新興財閥と一般貧困層の格差が拡大。
    強いロシアを作るリーダを国民は求め、それがプーチンである。

    まとめ

    「ソ連崩壊後の新生ロシアが経済混乱した理由」を解説しました。

    • ①通説
    • ➁通説に対する疑問点・気になる点
    • ➂通説を検証して見えた真相
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